デリー編

バナラシから来た男
 朝起きてパヤールを出ようとすると、フロントで一人の日本人青年が座っていた。
話か掛けられたのでいろいろ話すうちに仲良くなった。
彼の名はヒロ。
バンコクからカトマンズを経てインドへともう一ヶ月も旅をしているらしい。
確かに彼には長い旅をしているような風格と言うかたいそうくたびれた感じが漂っていた。
でも、彼にとっては旅も終わり。明後日には日本に帰るらしい。
彼はバックパックのほかに大きなバッグを持っていた。中身はタブラーと言う太鼓のような楽器だと言う。
なんでも彼はバナラシがとても気に入ったらしく、そこでそのタブラーに出会い二週間も滞在してタブラーの教室に通い詰めたと言う。
いいお土産が出来たもんだ。
彼は僕と同じ22才というのもあったし、とにかく僕らは意気投合して今日一日行動を共にすることにした。
目的地はチベットキャンプ(*5)だ。

 早速僕らはリクシャーを探すことになった。
ここは一ヶ月旅をしてきたヒロの力の見せどころ。
しかし意外にも彼は交渉が得意ではなかった。
少なくともバナラシではもっと簡単に交渉できると彼は言った。
しかし、彼の交渉下手にはもう一つ理由があった。英語があまり話せないからである。(*6)
実際よく聞いてみるとよくこれでここまで無事に来れたもんだと感心するぐらい英語がダメなのだ。
僕もお世辞にも英語がうまいとは言えないが、日常生活を送る上ではそんなに不自由を感じてはいなかった。
が、ここまでダメだとさすがに辛いでしょう。
これじゃあ彼の旅の苦労も推し量れると言うもの。
それともガッツで何とかなるんだろうか。
その後何とかリクシャーを捕まえることは出来た。
チベットキャンプにはチベット系の人たちが多く暮らしている。
彼らは僕ら日本人と近い顔立ちであるという。
そして何より彼らの食するチベット料理は日本の味に近い物なのだという。
僕は連日のやたらスパイシーなインド料理やインド人の作るくそまずい洋食に辟易していた。
中でもインド料理は必ず多量の香辛料を使うので辛いものの苦手な僕はいつも冷や汗を流しながら食べていた。
もうすでに、僕のお腹はカレーを受け付けない。

僕たちはチベットキャンプの中のレストランの一つに入っていった。
ヒロはネパールではチベット料理ばかり食べていたらしい。
僕は代表的なチベット料理モモとトゥクパを注文した。
食べてみるとモモは皮の厚い餃子、トゥクパはやわらな麺入りのあっさりスープといった感じでそれほどうまいわけでもなかったが、僕はこの優しさにあふれるチベット料理にすごく満足していた。
辛くないのって素晴らしい!

 食欲を満たした後僕らはチベット仏教の寺院に行ってみることにした。
チベットから追われてきた彼らにとって信仰はとても大事な心の拠り所だったに違いない。
その寺院もとても大事にされている感じがした。少し広い本堂の奥には仏陀の像。
なんとも変な顔である。
僕らがその像を眺めていると一人の中年女性が入ってきた。
彼女は床に座り仏陀像に向かって深々とお辞儀をした。
しかし、様子が変だ。
ただのお辞儀かと思った彼女の姿勢はお辞儀から土下座に変わり、
さらには額を床に擦り付けながらどんどん前に倒れていく。

・・・・ここがお寺でなかったら彼女の姿はさぞかし滑稽に映ったろう。
だが、彼女の目は悲哀に満ちていた。
とても笑えない。

ついに彼女は手を伸ばしたうつ伏せ状態になり、その姿勢から顔を上げ手を合わせた。
いったいそこまでしなければならない彼女の悲しみとはどれほど深いのか。
まさしくこれは最上級の祈り方だ。
とうとう僕たちはいたたまれなくなってその寺院を出ることにした。



仏陀像とヒロ

(*5)チベットキャンプ:1949年、中国の人民解放軍はチベットに侵攻して全国土を占領し始めた。指導者ダライ・ラマはインドへ逃れ、1959年3月に勃発したラサ蜂起が鎮圧されるに至った。ダライ・ラマ法王に続いて、約8万人のチベット人が亡命し、インド、ネパール、ブータンに定住。それがチベットキャンプである。難民の流入は今も続いている。現在、難民の数は、亡命中に生まれた者を含めて合計13万人以上となり、人民解放軍のチベット侵攻以来、およそ120万のチベット人が命を奪われた。

(*6)約800あると言われるインドの言語の中で公用語はヒンドゥ語の他に憲法で公認されている州の言語が17ある。英語は準公用語で、観光地や大きな都市の旅行者がお世話になるようなところはまず英語は通じるだろう。


BACK TOP NEXT