ミャンマー旅行記

<乞食に会ったら>更新日2005.7.14
ミャンマーは貧しい国だが乞食はそれほど多くなかったと思う。
それでも都市部ではよく乞食に会う。
僕は乞食に対してどうしてあげたらいいのだろうか?

インドを旅行したときは僕はよく動揺したものだ。
外国人と見るやわらわらと寄ってくる子供、子連れの女、そして手足の無い人々。
片や僕は彼らに比べいろんな面で遥かに恵まれている。
僕は僕の持っている富を少し彼らに分けてあげたところで痛くも痒くもないし、彼らが喜ぶならそれでいいと思う。
でも、インドの乞食はめちゃめちゃしつこいし、一度あげれば仲間を呼び次から次へと催促される。
正直うざい。
それに子供の乞食は物をもらう癖がついてしまうとそれが自立の妨げになるかもしれない。




僕はヤンゴンで出会った日本人男性からいやな噂を聞いた。
タイのバンコクにはある乞食グループがあって、毎日どこからか車で連れてこられるのだという。
そして一日お金を集め終えたらまた車でどこかに帰っていく。
なんと乞食を束ねるブローカーがいて乞食の「売り上げ」を吸い取っているというのだ。
金銭感覚の乏しい外国人を相手にすればひょっとすればかなりいい稼ぎになるのかもしれない。
本当だとしたらひどい話だ。
日本でも慈善団体を装って金を儲けようとするひどいNPOやら何やらがあるが、ひょっとしたらバンコクの乞食も・・・。
ありえなくもない話だ。


人の善意を食い物にする人がいる。
そんな話を聞いたら誰でも気軽に乞食に恵んであげるのをためらってしまうだろう。


でも、それでも困っている人の力になりたい。

僕はあるとき答えを出す。

ピイにて
ソーミンさんにナイトマーケットを案内してもらったとき痩せた汚らしい格好の少女がやってきた。
彼女は僕に施しを求めたものの、元気がないのか最初無視したらただ黙ってついてくるだけになった。
ソーミンさんは無視している。
こんな時どうすればいいか?
ミャンマー人に聞いてみれば分かるだろうと僕はソーミンさんに率直に聞いてみた。
「こういう人が来たときミャンマー人はどういう風にするの?」

予期していなかった質問をされたためかソーミンさんはちょっとどぎまぎしながら
「貧しい人にはお金がある人が施しをするよ」
と言った。

至極当然のことだ。でも貧しい人はちゃんと貰えているのだろうか?

僕はそのときひらめいた。
ミャンマーは敬虔な仏教国だ。
そこで僧は托鉢というものを行う。
ミャンマーの民衆は僧をとても尊敬しているし、托鉢を行えば最低限の食料とお金は手に入るはずだ。じゃあ、

「じゃあ、この子は僧になればいいんじゃない?そうすれば食べるものには困らないよ。そうでしょ?」 「この子は僧にはなれないのかな?」

ソーミンさんは言葉を濁して何も答えなかった。
僕はミャンマーの仏教のシステムを詳しく知らない。
女や生まれの悪い人はは僧になれないのかもしれない。
でも僕はソーミンさんに答えを期待したわけではなく、ただ自分で見つけた答えに自分で納得してしまった。

食えないほど貧しい人は僧になればいいんだ!そういうシステムにすればいいのに。
ミャンマーの仏教は実はもともとそういう社会保障の面を持っているのかもしれない。 それをうまく機能させてやれば・・・。 と、勝手にそういう風に妄想したところで何か変わるわけではないが、僕は別のところで一つヒントを得た。


それはこうだ、
たとえもしこの乞食の女の子が金だけ目当ての腹黒い奴かあるいはぐうたらな親に操られて無理やり乞食をやらされているとしてもだ、
この子が今食べる分だけの食べ物を渡してあげるぐらいなら、僕の目的からそんなに外れることはない。
托鉢と同じように生きるのに必要な最低限の施しをあげればいい。
例えば、この子に丁度合うような服や靴を買ってあげるのでもいい。
お金をあげればそれが第3者に渡ってしまうかもしれない。
だからお金や換金できるものではなく、この子のためになるものを。
それなら僕は心置きなくできる。

そういうわけで僕はひとまず自分がどうすればいいか気付いた。


だからその時、僕はその女の子にりんごを2つ買ってあげた。(もっとマシなものにすればよかった・・・。)
また別の時は、僕は乞食少年と一緒にモヒンガーを食べた。
小さな子供連れの女には会う度にバナナを買ってあげた。
100K(12円)とかだから実に安いもんだ。

僕のこの行為、
偽善といわれようと何と言われようと、僕は自信を持ってこれを行う。
ひとまず自分も満足できるような答えを見つけられた。
でももっといい方法があったら僕に教えてください。



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